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憲法の変遷理論と九条の無効確認決議について

宮崎 貞行

無効か有効か

「暴力またはその威嚇のもとに強制された法令は無効である」というのは、法哲学の基本であって、いまさら言うをまたない。現憲法は、アメリカ国体の価値観を押しつけるとともに、我が国がアメリカに二度と敵対することのできない属国として存続するように巧妙に仕組まれたものであったが、占領軍の武力を背景に制定させられたこの憲法は、法理論上はそもそも無効なのであった。

したがって、占領が終結し主権を回復した昭和二十七年に、政府と国会が憲法の無効決議をして新しい憲法を制定しておけばよかったのだが、吉田茂内閣はその道を取らなかった。英文憲法草案の翻訳にあたった白洲次郎は、このとき占領軍憲法を廃棄しなかったことは吉田総理の最大の失政であったと批判しているが、私もこれに同意する。

しかしながら、吉田内閣も国会も廃棄しなかったため、その後、本来無効であるはずの憲法の条文は政府において有効なものとして取り扱われ、裁判所においても憲法を有効としその解釈をめぐって様々な判決が下されてきた。したがって、今日、現憲法の全体を無効として一挙に葬り去ることは、クーデターによらない限り、不可能となった。

けれども、憲法九条については、「憲法の変遷」理論を適用して、国会と政府が無効を確認する宣言を行う余地があるのであり、中国が尖閣諸島の領有権を主張して武力を行使する準備を着々と整えている状況にかんがみると急いで行動しなければ時期を失すると私は考えている。では、「憲法の変遷」とは、どういうことなのか、それをまず検討してみることにしたい。

変遷の要件は

「変遷」というのは、ドイツの法学者ゲオルク・イェリネック(1851―1911)などが生み出した用語である。憲法の改正手続きによらないで、憲法規範の意味が事実上変更されることを「変遷」と呼んでいる。

これは、改正手続きの要件がきわめて厳しい憲法において新しい事態に早急に対応しなければならない場合や、改正手続きが緩やかであっても憲法が想定していない事態が発生して緊急に対応しなければならない場合にしばしば起きる現象である。

イェリネックによれば、憲法規範の変更は主として次のようなケースに起きるという。

    1 議会の立法、政府または裁判所の解釈によって変更されるとき
    2 慣習の積み重ねによって変更されるとき
    3 憲法制定当初の前提の根本的な変化によって変更されるとき
    4 政治上の必要によって変更されるとき

我が国でも、美濃部達吉がこの理論を最初に紹介し、清宮四郎、佐藤功、小林直樹、橋本公宣などの憲法学者も、憲法条項に「変遷」のありうることを肯定してきた。

たとえば、議会の立法によって、憲法の明文規定に反するような制度変化が起きた場合をとりあげてみよう。

端的なケースは、私立学校振興助成法による私学助成である。

憲法八九条は、「公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し」公金を支出してはならないと明確に定めているにもかかわらず、振興助成法により、私立の学校に対し助成金が支払われている。これは、原理主義的解釈をすれば、明らかに文言上は憲法違反である。しかし議会の立法により、八九条の規範的意味が変更されたのである。我が国の憲法改正の要件があまりにも厳しすぎるために――これは占領軍が将来の改正を恐れ米国憲法の改正要件以上に厳しい規定を設けたためだが――、私立学校に助成を行うことによって早急に教育レベルの底上げを図るという政治上の必要に迫られた政府が、立法により、憲法規範の変更を行ったのである。自衛隊の存在を憲法違反とする私立大学の学者が、私学助成金の違憲性について口をつぐんでいるのは二重基準の偽善というほかない。

九条は失効している

次に、憲法九条について検討してみよう。

ご承知のように、すでに昭和二九年の自衛隊法の制定により、我が国が自衛の武力を持つことが明確に容認されてきており、裁判所の合憲解釈も定着してきている(前記1のケース)。また、領空侵犯への警戒出動など自衛力の行使は、長年の慣習としても定着してきている(前記2のケース)。

また、自衛隊法の制定は朝鮮戦争の勃発やソ連の威嚇を受けた政治上の必要からうまれたものであり、集団安全保障関連法も中国の覇権的な挑発行動に迫られ政治上の必要から制定されたものである(前記4のケース)。

さらに根本的なことをいえば、前文には、諸国民は平和を愛することを前提に置き「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安全と生存を保持しようと決意した」とあるけれども、韓国の竹島侵略や中国の日本領土に対する武力威嚇の現状を見てもお分かりのように、この前提が崩れたことがはっきりしてきた。いいかえれば、憲法制定当初の国際情勢の認識――日本さえ侵略しなければ、他国は侵略行動をとらないという牧歌的な前提が崩れたのである。こういう根本的な変化が起きた以上、「平和を愛する諸国民」の存在を大前提とした憲法九条は、すでに規範的意味を失ったといわなければならない(前記3のケース)。

以上の諸点に照らし合わせてみると、イェリネックの言う「憲法の変遷」は、憲法九条についてはすでに完了しているとみるべきである。

追加的に言うなら、すでに我が国は、「陸海空軍」に匹敵する有数の戦力を保持しているのであるから、「これを保持しない」とした九条二項は失効したとみるべきであろう。また、二項後段には、「交戦権はこれを保持しない」とあるが、これは翻訳の明らかな誤りである。占領軍の用意した原文では、「right of belligerency」となっており、これは、本来「好戦権」と訳すべきところを誤って「交戦権」(英語でいうならright of engagement)と誤訳したものである。このため、自衛の目的で戦火を交えることすら憲法違反と表面上解釈しうる余地を生んでしまった。 (「right of belligerency」を交戦中に持つ権利と解釈する意見があるが、それが実際上いかなる権利を意味するのか不明である。)

「好戦権」というのは、国際法上も明確な定義のない用語である。それは国策遂行のためには戦争に訴えることを辞さない権利を指すものと思われるが、翻訳の重大なまちがいを含むこの二項後段は意味が不明で、したがって効力がないとみるべきである。白洲次郎らが英語原文の翻訳をあわてて行ったため重大なミスを生じてしまったが、こういう誤った条文を形式的にも残しておくことは、日本の安全と平和のために百害あって一利なしというべきであろう。

また、一項についても、「国際紛争を解決する手段」としての武力行使を放棄するとしているが、「国際紛争」と称されるものであっても武力を行使する以外に領土の保全ができないという場合があるので、この規定は自衛のための武力行使をさだめた自衛隊法および自衛権を認めた国際法と明らかに矛盾する。一項を表面的に、原理主義的に読むなら、竹島や尖閣の領有という「国際紛争」に自衛隊が出動することが許されないという解釈も成立しうるが、これは国際法で認められた我が国の安全保障の権利を無視している。

占領軍は、日本に対する報復と警戒という異常な情勢の中で、あわてて草案を作成したため、いくつもの誤解を生む余地を残したあいまいで大雑把な九条の文言が出来あがってしまった。本来、安全保障にかかる憲法規定は、誤解を生む余地のないもっとも緻密な文章でなければならないが、この十分検討を加えていないことが明らかな九条を六十年以上そのまま放置してきたことは、憲法学会と国会の知的怠慢といわざるを得ないのである。自衛隊も違憲とする原理主義的な解釈を許す余地が残っているのは、九条自体に内在する致命的な欠陥であって、これは早急に是正されなければならないと思う。

失効確認の手順はこうする

以上のようにいくつかの側面から見ても、憲法九条の規範的意味が失われたことは明らかであるが、問題は個々の学者あるいは国会議員が「憲法九条は変遷した」と述べても、政治的には意味がないということである。「変遷」が政治的に意味を持ったものとして確立されるためには、ある公的な手続きを経なければならないのであるが、その手続きについて学者たちは意図してか、意図せずしてか知らないが、議論を避けてきたきらいがある。

そこで、私は、「変遷」を確定する以下の手順を提案してみたい。

国会は国の最高議決機関とされているので、まず衆参両院が過半数で憲法九条の変遷と無効の確認を決議し、合わせて政府に対し無効確認を求める。

六十年以上の歳月をかけ各種の立法や判例等を経て憲法の規範的意味がすでに失効していることを確認するだけであるから、その決議は過半数の賛成で足りると考える(政治的には、三分の二以上の賛成が望ましいとしても)。また、この発議は、法律の発議要件に準拠して衆議院で二〇名以上、参議院で一○名以上の賛成で足りるであろう。なお、これに合わせて、日本の自虐史観の根拠となっている憲法前文の無効確認と八九条の「教育」文言の無効確認も行うのが精神衛生上好ましいとおもう。

    1. 右の国会決議に基づき、内閣が失効の理由を明確に付したうえで憲法九条の変遷と無効を確認する宣明書を発出する。
    2. 内閣の代理として法務省が最高裁に対し、政府が宣明したことの事実確認の宣明書を発出するよう要請する。
    3. 最後に、最高裁判官会議が、司法行政権に基づき、政府宣明を確認する最高裁宣明を内外に発出する。この場合、最高裁自身が憲法九条の変遷と無効を確認する必要はなく、政府宣明が出されたことの事実確認の宣明で足りる。(個別の裁判が継続していない場合であっても、最高裁が司法行政権に基づき宣明書を発出した前例がある。それは、昭和五十一年七月、米人コーチャンを訴追しないという検事総長の宣明を確認する最高裁宣明を出した事例である。)

決定的瞬間に至るまでに

以上の手続きを踏めば、国民を代表する国会と政府が、公式に憲法九条の変遷を確定したことになり、最高裁も公式に承知した事実が確定する。

このようにして、九条の無効が公式に明確にされれば、国際権力政治(パワーポリティックス)の冷酷さを考慮に入れず、世界の軍事バランスと軍事戦略にまったく無知な学者、知識人たちが唱える牧歌的な解釈の忍び込む余地をなくすることができる。  原理主義者たちも、強気を装いながらもその解釈が緊迫しつつある国際覇権政治の現実と益々かい離し、内心は不安と違和を感じているはずであるから、かれらの不安感と違和感をはればれと払拭することにも役立つに違いない。

彼らは、パックスアメリカーナに反対してきたが、九条の原理主義的解釈を維持せよというかれらの立場は、逆に日本の防衛を米国に依存し続けさせることによって我が国を米国の利益に奉仕する属国として固定化するという矛盾に気がついていない。彼らの解釈する「平和憲法」は、自主防衛力の強化を妨げ、ご主人米国に仕えるほかない「奴隷の平和」憲法にほかならないという事実にまだ気づいていないようである。自主防衛力に欠けるがゆえに、これまで金融交渉、半導体交渉などでつぎつぎ苦汁を飲まされ、多大な国富を失ってきたことを忘れてはならない。

安倍内閣は、憲法改正条項の改正からまず始めようとしているが、この正攻法では九条の形式的改正は、早くても五年以上の歳月を要するであろう。その準備はそれとして進めていけばよいが、この正攻法では、空母を建造して尖閣を奪取し、次に沖縄の領有を画策しようとしている中国に対処することができないであろう。中国は憲法改正を待ってくれるほどお人好しではないのである。

ちなみに、ドイツの憲法学者で憲法裁判所の裁判官を務めたコンラード・ヘッセは、次のように述べている。(西修『憲法を考える』より抜粋)

「憲法が危機を克服するための配慮をしていないときは、責任ある国家機関は決定的瞬間において憲法を無視する挙に出るほかすべはないのである」

遅くとも、中国が不法に尖閣を侵略するという「決定的瞬間」が訪れたとき、国会と政府はためらわず、憲法九条の無効を公式宣言しなければならない。幸い、われわれは、クーデターという最悪の手段ではなく、変遷という理論を活用することによって、制度疲労した憲法条文の無効を公式宣言し、国の危機を打開することができる。

 

あとは、西郷隆盛のように「金もいらず名もいらず」という勇気のある政治家の登場をまつだけである。

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